火と水をつかさどる二人の神・有鹿大明神
本殿-太陽神・有鹿比古命と水神・有鹿比女命が祀られる。1622年建立

火と水をつかさどる二人の神・有鹿大明神

樹齢数百年にも及ぶ樹々に囲まれる有鹿神社。そこに祀られる有鹿比古命は男神の太陽神であり、又、有鹿比女命は女神の水神であります。火と水を合わせて「カミ」となり、「有鹿大明神」と称え、人々が親しみを込めて「お有鹿様」と呼んでいます。

有鹿神社は神奈川の「へそ」とも言われていますが、その歴史は非常に深く、古代にまで遡ります。

縄文から続く水引祭

有鹿神社

縄文の頃より、有鹿谷にあった豊かな泉は、水神として崇められていて、現在の鳩川流域に展開した「有鹿郷」の勢力を背景にその郷の水田・農耕の安全と豊穣を祈り、「水引祭」と呼ばれる祭祀がなされたのがそもそもの始まりでありまして、有鹿神社はその時期に創建されました。

その「水引祭」は現在まで受け継がれています。

国府を守護する神社として国家の祭司を執行

天井龍絵
天井龍絵-1860年藤原隆秀により描かれ
る。海老名市文化財として指定を受ける

奈良から平安末期になると海老名耕地という大墾田を背景とし、「有鹿郷」の中心には国府が置かれ、有鹿神社は国府を守護する大神社となり、広大な境内には美麗な社殿が建立され、国家的な祭司も執り行われていました。

平安末期から室町中期まで、海老名氏と名乗る武士団は、支配のよりどころとしてこぞって有鹿神社を崇敬し、そのご神域にあたる国庁跡の居をかまえていたそうです。

室町時代では2度の兵乱の災を被り、「海老名氏」は滅んでしまいました。神社も一度は灰と化してしまい、広大な領地も略奪さたものの、戦国時代でも「海老名郷」に属する上郷・河原口・中新田・社家・中野等の人々から、有鹿神社は崇敬をうけていました。

水神を祀る神社水争いを収める

パンダ宮司

江戸時代には、鳩川の水争いが起き,これを解決するためと海老名耕地の用水を確保するために「水引祭」は再開され、「水引祭」は確立されました。徳川家康の朱印十石の寄進を受け、社殿は再建され、相模国五之宮と海老名総鎮守として崇敬を受けます。

 第二次世界大戦の後の政教分離により、宗教法人として神社本庁の傘下に入りました。  そして現在も尚、氏子・崇敬者の崇敬心はあつく、崇敬を受けています。

 

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